スロベニア商工会議所主催
「日本の夕べ」復興支援イベント用スピーチ原稿

こんにちは中嶋千春です
今回はMarko Jare氏のご尽力によりこのような機会が作られたことをとても感謝しております
またお忙しい中にも関わらず ジャルニッチ環境・空間計画大臣、石榑利光日本大使、
そして多くの方に起こし頂きましたのに出席することが出来ず申し訳有りません。

【私達はあの日からどう動いたか】
ご存じのとおり3月11日を境に日本は大きく変わりました。私はあの日、
埼玉(東京の近く)の自宅で机に向かっており嘗て無い大きな揺れに驚き机の下に隠れました。
夫のツヴェートは仕事で群馬におり停電により信号機も止まった真っ暗な道路を
10時間以上かけて戻ってきてくれました。

その後の様子は多くの外国メディアが伝えたとおり悲惨なもので
次から次へとラジオから流れる報道もテレビやネットから流れてくる映像も
信じることが出来ないものでした。特に津波で流され、
火に巻き込まれた三陸沿岸の映像はショックで、
助けを求める人が映像で映っているのに何も出来ない、
数日経った後も流通経路が遮断されているため救援救助がままならないなど、
経済大国・安全神話のこの日本でどういうことなのだ!
と怒りにも近い焦燥感に包まれました。そして福島第一原発の事故を受けて
13日の日に東電と政府が計画停電を発表。
節電と共に水などの貯蓄を控えるように促されたところで
再び14日に大きな爆発が福島第一原発で起こりました。

私達は山岳ガイドの仕事をしておりますが、この状態では仕事はできないので、
とりあえず被災者のホームステイ受け入れやボランティア登録をし、
節電を兼ねて当分の間は自宅から離れようと決め車で南に移動しました。
移動しながらも私の気持ちはずっと東北にあり一日中私はラジオを聴き、
流れてくる情報やメッセージに気は休まりませんでした。
南に移動した私達ですが、この3月末は本当に寒かったのです。
この寒い中家を流され大きな体育館などで避難している人達の寒さはいかばかりだろうと・・
ネットで自分が出来ることを探し続けましたがこの頃一般県外ボランティアを受け付ける所は無く、
現地で活動をしていたのは自衛隊を初め地元や医療関係のボランティア、
そして情報やライフラインに携わる限られた人達だったと思います。
いずれにしてもラジオから流れてくる現地の人達の頑張りは同じ日本人として
心を痛めると同時に誇りさえも感じられるものでした。
そんな中、所属する山岳ガイド協会が
医療関係者の後方支援としてボランティアを募っていることを知り、
早速応募しましたが、女性だと言うこともあり参加は4月中旬となりました。
しかし自分がやっと何か出来ることを知り、
この焦燥感の出口を見つけることが出来たような気がして
私達は自宅に戻ることに決めました。大震災から約3週間経った後です。

【ボランティア活動の開始】
さて此処からは私の小さなボランティア活動に関してお話しさせて頂きましょう
正直申し上げて私は今までにボランティアという活動をしたことがありませんでした。
1995年の阪神淡路大地震の時にも2004年の中越地震の時にも
寄付金を赤十字に寄付金を送っただけでそれがどの様に使われているのかも知りませんでしたし、
ボランティア活動は知っておりましたが、自分で行動を起こすまでにはいたりませんでした。
でも今回は何かしないことには自分の気持ちが収まらなかったのです。
一日中ラジオを聞きネットを探り、頭の中が被災地で一杯でした。
海外に居て日本を思ってくださっている方達は自分たちが駆けつけられない距離にある分、
余計にそう思われていた方がいたという事も後で知りました。
とにかく多くの日本人が実際に行動に移せたかどうかは別として
「何かj自分に出来事は無いか」と探していたことは確かです
ボランティア活動を通して多くの被災地の方から感謝の言葉を頂きましたが、
それ以上に援助を提供した方から多くの感謝の言葉を頂いたことは私にも驚きでした。

【仙台での半壊家屋土砂撤去ボランティア】
4月の半ばから医療団の後方支援ボランティアとして9日間行くことは決まっていたのですが
道路工事関係の私欲を捨てた働きによって、
高速道路も驚く間に復旧し一般にも開放されたので、
ネットで仙台の教会関係が一般ボランティアを募っていることを知り、
私に何が出来るのか?迷惑ではないのか?という不安はありましたが、
とにかく行こうと決め、車にガソリンや友人から貰った野菜や食べ物を詰めて現地に駆けつけました。
仙台市の様子は見た目には被害が無く、
節電で暗い関東よりも電気がこうこうとして被災地とは思えない感じでした。
しかし多くの所でガスや電気、水が止まっていて実状は全く違いました。
活動拠点の教会には当初、嘗ての被災地だった神戸や新潟からそして遠くは
沖縄や北海道から牧師さんやその関係者が集まっていました。
もちろん私の様に不信者も混ざっていましたが、
行政はもとより他のボランティア活動が上手く組織立てられない中、
教会はその組織力と経験で早い段階から活動を始められた組織の一つです。

私達の活動は津波で半壊した個人宅の泥だしが主でしたが、
その場所はこの教会から自転車で30分ほど海に向かった所にありました。
自転車で移動すると風景はドンドンと変わり報道で流れていたような風景がそこにありました。
しかし報道の映像と違うのは画面や写真のフレームから外れてもその風景が延々と続くことで、
その被害の甚大さにには言葉が出ませんでした。
此処は東北の仙台のホンの一部、そんな広大な被災地のホンの一角の一軒のお家の泥を
人力で出して何になるんだ・・と唖然となりました。
でもみんな黙々と泥を取って積み重ね。家具を洗ったり、片づけたり・・・。
私が手伝った家の家主は頑固そうな技術者で、
わずか数時間の出来事で大切なモノを多く失っただろうその人は
自分でも何をして良いのか解らなかったと思うし、当時は全くの他人が、しかも行政レベルではなく、
民家のお手伝いするというボランティア活動はあまり認知されていなかったので、
手伝ってもらう側も「何故?」と困惑していたと思います。
手伝う方の私達も何と声をかけて良いのか解らず、「不愉快なのでは?」と半信半疑な気持ちでした。
しかし私達には丁寧に丁寧に家の片づけをすることしか出来ません
最後に「庭は終わりました」と報告に行った時に初めてご主人が重い口を開き
「何処から来たの?」と聞いてくれました。、
そして私達が縁もゆかりもない遠くから来たという事を聞き、
涙を滲ませながら「そんな遠いところから来たのか・・
ありがとう。本当に助かりました」と小さく言ってくれました。
その時、私は初めて私が出来るほんの些細な事でも何かの役に立っ気がしたのです。

【医療団の後方支援ボランティア】
その後一旦自宅に戻り、また4月の半ばから9日間、
予定していた医療団の後方支援で南三陸町のボランティアに行きました。
南三陸町は入り組んだ海岸のせいか被害が大きかった町の一つで、
何百人もの方が無くなった場所であり、その惨状は世界にも多く報道されたとおもいます。
今回の私達の活動は被災者に直接何かをするわけではなく、
HUMAという組織で医療ボランティアをする先生や
看護士さん達の食事を作ったり荷物を持ったりという仕事でした。

医療団の方達と一緒に動く中でたまたまある被災者女性とお話をする機会があり、
「何か不便な事は有りませんか?」とお聞きしたところ、
遠慮しながらも「色々有りますけど洗濯が大変なんです」と言われました。
震災から1ヶ月経っても、まだ水・電気・ガスが此処には来ていなく、
被災者は公民館や体育館などで助け合って共同生活をしていました。
お風呂も殆ど入れず同じ様な服のまま生活をしている方が多かったのです。
寒い中、川まで歩いて行って衣服を洗い、手で絞っただけではなかなか乾かない。
ラジエーターを使ってせめて脱水だけでも、というのが女性達の希望でした。
何とかかなえてさし上げたいと思いましたが、私1人で数台の洗濯機は高すぎます。
震災当初から色々な情報収集のためツイッターというモノを見るようになっていたのですが、
宿に帰り調べてみるとツイッターを通して「援助出来る人と援助が欲しい人を繋ぐサイト」が見つかり、
早速「洗濯機が欲しい」と書いてみました。すると驚いた事に次の朝には早くも問い合わせが3件!
その週の内に20代の女性とルイジアナ在住の日本人から5台の洗濯機が
2カ所の避難所に贈られる手配がつきました。

【ネットを使った個人物資宅配ボランティア】
医療関係のボランティアが終わってから、個人でも「出来ること」を見つけた私は
一旦帰宅してからGW後にまた車に荷物を積めて仙台と南三陸町に向かいました。
この時の大きな助けはルイジアナで
チャリティーT-shirt活動を行っていた賀茂さんという日本人男性でした。
今私達が販売しているT-shirtも彼らのデザインが元になっています。
ハリケーン災害時を教訓として「物資は欲しいところには届きづらい」ということを知っていた賀茂さんは
私のように身軽に動いてくれる現地パートナーを探していました。

この賀茂さんの助けを借りて私は南三陸町・歌津の小さな避難所に
震災後二ヶ月経ってもなかなか届かない新鮮な野菜や乳製品を届けたり、
時には子供達にドーナツなどを届けたりしました。賀茂さんの他にもネットを通して
日本人はもとよりドイツ人の方やフランス在住の日本人などから支援を頂き
被災地で「その時」欲しいものを聞き、その予算にあった範囲で、
避難所にマットレスや食器類・キッチン道具など内陸の少し機能し始めた町で
買い物し次の日に届けるという活動を8日間行いました。
同時にヤフーのウオッシュリストを使ってネット環境のない被災者に代わって
彼らが今必要としているモノが届くようにしました。

GWを境に被災地にも電気や水が通るところが多くなり、
個人ボランティアの人や、NPOなどのボランティアグループで動いている人達の活動がめざましくなりました、
しかしこの頃迄の避難所や個人宅への配給、
また情報はこれら草の根のボランティアとそれを支える人達がいなければ、
どうにもならなかったと今でも私は思っています。
実際にはこの時多くの善意の物資が世界中から行政や赤十字をとおして被災地に集められていたのです。
もちろんその事も医療団と行動を共にしていた時から私は知っていましたし、
みんなその事にとても矛盾と怒りを持っていました。現地行政への批判が集中したのもこの頃です。
私も現地行政にたいして「何でこんなに物資が有るのに困っている人に配らない!
許可さえくれたら私達ボランティアが配るのに!」と批判的な立場でしたが、
実際、この頃の現地行政は手一杯だったのです。
今さらながら、もっと早い段階から被災地でない行政から現地に人を派遣するべきだったと思っています。

私はこの時個人ボランティアでしたので、比較的規模の小さな避難所を廻っていましたが、
この頃スロベニアポップTVの義援金1310 eurを使って
欲しいという事をスロベニア大使館から聞いていましたので、
歌津で一番大きな避難所の一つ、中学校の体育館の様子を見に行くことにしました。
此処は歌津の行政機関も兼ねていましたが、役場の人達は自分たちも家を失い、
眠れない避難所で暮らしながら次から次へと起こる事態に対処しながら
住民の不満と行政の限界の狭間で今にも壊れそうな感じで仕事をしていました。
そして此処ですら物資が行き届いてないことに私は驚きました。
「何が今一番必要ですか?」と職員に聞いたところ
「夏に向けて毛布だけだと衛生的に良くないのでシーツが欲しい」と言われ
直ぐ私はポップTVのナターシャさんに連絡し許可を貰い100kmくらい車を飛ばし
シーツと枕を150人分買い避難所に届けました。
震災から2ヶ月以上経った5月15日です。

役場の人は行政関係の物資の中にシーツや枕が有るのを知っていましたが、
人数分有るのか?不公平ではないのか?
と言う懸念と時間に追われて自分たちではどうにも出来ない状態でした。
その後もこの避難所にはHelena Drnov?ek Zorkoスロベニア大使や
他の日本人の方から扇風機を贈って頂いたりしました。
当時の避難所では小さな小競り合いはあるものの皆さん本当に
よく忍んでいらっしゃって、その笑顔にこちらが逆に励まされました。
家や仕事を失った漁師さんが
「本当にボランティアさんには今回助けて貰った。
オレは今まで何処かで災害があっても知らんふりしていたけどさぁ〜今度何かあったら行くよ、絶対行く!」
と言うのを聞いたときにはつい感激して涙がでてしまいました。

【スロベニアと共に】
その後もう一回6月の初めにスロベニア大使と現地を繋ぐため南三陸町を訪れました。
もちろん被災地である事には変わりありませんが、その時には仮設住宅への移動も進んでおり、
地元FMも開設され情報も行き渡るようになり役場も
他県の援助を借りて少しずつ機能を取り戻して来ていました。
そして私達は仕事のためスロベニアに来たわけですが、
夫であるツヴェートが私の意向に添って私の50才の誕生日を日本復興のチャリティーイベントにしてくれ、
それをテレビで放映してくださった事により今日、この日に繋がったと思っています。
(6月19日のこのイベントからスロベニアでのT-shirt販売に関してはツヴェートの言葉で写真と共に)

在日中、人から預かったお金で物資を買い届けたり、
現地で欲しいものを発信したりということが後半の私のボランティア活動でしたので
私が届けた物はホームページやメールで援助者に報告を全ていたしました。
スロベニアで皆様から預かったお金も帰国後に現地で有効な使い道を探し同じように報告するつもりです

今日のニュースで「津波で流された5700個もの金庫が警察に届けられ、
23億円近い現金が持ち主に返されたことに欧米が驚き」とありました。
日本人は世界の中でも良いにつけ悪いにつけ特殊なのかも知れません。
津波で家を失った、今では私の友人の女性に当時の様子をしばらく経ってから聞きましたが
「その時は側にいない家族のことより、今目の前で困っている人を助ける事しか考えられなかった。
家族が何処かで困っていたらキット同じように周りの人が助けてくれると信じたから」と言われた時に
東北、そして日本人の強みを確信しました。
「誠意と信頼」は津波では流せない私達の財産だと思います。
亡くなられた方のご冥福を祈ると共に、
福島を含む今後の日本が一日も早く復興できることを祈って止みません